ブランデーの起源と歴史 前編

お酒の知識
Snifter with brandy on black wooden table

はじめに

ブランデーというお酒。どういうイメージでしょうか。

やっぱり暖炉の前のロッキンチェアーでバスローブでペルシャ猫を膝に乗せつつグラスを回している岡田眞澄的なダンディなおじさまでしょうか。(もしかして最近の若い方は岡田眞澄さん知りませんでしょうかね・・・??)。 

そう、一般的な感覚としては、ブランデーというお酒は昭和で止まっています。
正確にはバブルが弾ける1991年(平成3年)あたりでしょうか。

ちなみにその頃からバーボンブームが起こり、ワインブーム、焼酎ブーム、シングルモルトブーム、ハイボールブーム、日本酒(地酒)ブーム、クラフトビール(地ビール)ブーム、クラフトジンブームと続き、それぞれがブーム以前よりも広く深く世の中に定着したように思います。一方で取り残されたブランデーはまるでバブルの遺物のように思っている方は少なくないでしょう。今回参考文献とした「ブランデーの歴史」という本はamazonで購入したものですが、他に何か本はないかと都内有数の規模を誇る有名書店を訪れたのですが、お酒の本コーナーに沢山あるのはまずワインの本そして日本酒の本。ウイスキーとビールがそこそこあって、焼酎、ジン、テキーラ、ラムなどが数冊程度。ブランデーに関する書籍はなんと一冊もありませんでした。たったの一例かもしれませんが、これが現状です。

 注目を浴びるとすればクラブ、キャバクラ、ホストクラブのような場所で高単価商品として有名銘柄が登場した時くらいでしょうか。

 もはや平成もとうに終わり、令和となった今日ですが、まさに平成はブランデーにとってはほとんど表舞台に出ることのない暗黒時代であったかもしれません。

しかし、蒸留酒の歴史を紐解くと、とくにヨーロッパにおいてブランデーは長く中心的な地位を築いてきました。ブランデーを知ることなしに、蒸留酒の歴史を知ることは難しいでしょう。

 というわけで今回は、ブランデーの起源と歴史についてのお話です。

まず前提条件ですが、ブランデーとは、一般にはブドウ、りんご、さくらんぼなどの「果実」を原料として作られた蒸留酒をさします。ブドウはグレープブランデー、りんごはアップルブランデー、さくらんぼのものはキルシュと呼ばれます。しかし、単に「ブランデー」と呼ぶ場合にはブドウを原料としたものを指すことが通例となっているため、今回はブランデー=ブドウを原料としたグレープブランデーとして、お話をしてまいります。

蒸留技術の伝播と発達

さて、ブランデーの歴史を紐解くためには、まずは蒸留技術の伝播について知る必要があります。蒸留技術はアリストテレスの時代から研究され、彼の教え子であるアレクサンドロス大王が築いたエジプト・アレクサンドリアのムセイオンという研究機関などで研究され、やがてイスラム世界に広まりました。

6世紀にはサーサーン朝ペルシャのホスロー一世がジュンディーシャープールという都市に医療学院を創設、薬の抽出に使う蒸留酒が作られるようになりました。薬草系リキュールのはしりと言えそうです。

その後イスラム帝国を築いたウマイヤ朝は北アフリカを経てジブラルタル海峡から現在のスペインとポルトガルのあるイベリア半島まで領土を広げました。そしてウマイヤ朝の本体が751年にアッバース朝によって滅ぼされた後もイベリア半島には後ウマイヤ朝としてイスラム国家が存続します。

気をつけておきたいのが、この後ウマイヤ朝の都のコルトバは、10世紀頃には「世界の十字路」の異名を持ち、アッバース朝の都として世界でもっとも繁栄していた都市、バグダードに匹敵するくらいの発展を遂げていたということと、一方でウマイヤ朝、後ウマイヤ朝が栄えた時期のヨーロッパは、かつては「暗黒時代」と呼ばれてしまっていたほど、イスラム世界や中国に比較して科学的には後進的な地域だったということです。それでもイベリア半島ではレコンキスタと呼ばれるキリスト教国家による国土回復運動や内乱などによってイスラム教国家は徐々に衰退していきます。そしてその過程での小さなイスラム国家の勃興やキリスト教側との領土のせめぎ合いを通じて、蒸留技術がヨーロッパに伝わっていったとされています。

そうして蒸留技術はスペイン誕生前のイベリア半島からヨーロッパを北上し、現在のフランス南西部を経てブリテン島にまで到達。もともとは医療用の技術として伝えられた蒸留技術でしたが、やがてワインを蒸留してみる人々が現れました。1299年には、時の教皇クレメンス5世のお抱えの医師だったアルノー・ド・ヴィルヌーヴが蒸留したワインで作った薬で教皇を治療したという記録が残っており、彼はそれを「命の水」という意味のラテン語、「アクア・ヴィタエ」と呼びました。もっとも、蒸留技術を用いた治療薬としての「アクア・ヴィタエ」は9世紀のイスラム帝国でアル・ラーズィーによって考案されていましたが、ワインを蒸留したものとなると、やはりヨーロッパに伝わってからだったのかもしれません。そしてそれはいつしか娯楽や保存性を高めるといった商業的な理由からも広まっていきました。それから程なくしてフランス南西部のガスコーニュ地方において蒸留したワインが樽で貯蔵されるようになり、熟成したブランデーが生まれました。1310年には熟成したブランデーにその土地の名前がつけられ、ブランデーのブランドとしての「アルマニャック」が誕生しました。やがてこのブランデーはガスコーニュ地方から南はスペイン南部のアンダルシアまで、北はフランスのボルドー、コニャック、ロワールへと伝播。16世紀初頭にはオランダの商船がヨーロッパの大西洋岸を船で行き来していました。この時代の船というと南北アメリカ大陸へ向かったり、喜望峰経由でインド洋へ向かったりなどの長旅を想像してしまいますが、もちろん短距離の貿易も行われていました。とくにオランダは寒冷な気候のためワインを作ることができず、北ヨーロッパの穀物を南ヨーロッパに売り、そして沢山のワインを購入し、自国の他バルト海地域にもワインを運ぶことによって利益を上げました。一説によるとオランダにワインを運ぶときの利便性からオランダ人自らワインを蒸留していたという可能性もあるそうです。そしてブランデーの語源を辿るとオランダ語で「焼いたワイン」を意味する「ブランデウェイン brandewijn」に行き着くのはこのあたりに関係していると思われます。

 一方スペインでもワインそしてブランデーが生産されていますが、先ほどのアンダルシア地方のヘレスという都市はシェリーという、白ワインにブランデーを添加した酒精強化ワインで有名な他、そのブランデーもブランデー・デ・ヘレスとして名を馳せています。とは言っても、スペインは世界第三位のワイン生産量を誇る一方で、ブランデーのイメージはあまり強くないかもしれません。スペインバルでワインやシェリーを頼む人は多くいても、ブランデーは置いてさえいないこともあるでしょう。やはりブランデーというとフランスの、とりわけコニャックの名前が最初にあがることが多く、かつそのイメージは間違いではないと思われますが、スペインにおいてもブランデーが広く親しまれてきたことを押さえておくのは、近代以降のブランデーの広まりを理解する時の要点となるでしょう。

大西洋岸交易と河川、ブランデー

 ブランデーはそんなスペインとフランス、そしてオランダまで連なる大西洋岸を、前述の通りオランダの商船が行き交うことで発展しました。重要な拠点となったのがフランス沿岸のラ・ロシェル、ナント、そしてボルドーという三つの街。ラ・ロシェルは当時ブランデーの街としてはまださほど有名でなかったコニャックの街を流れるシャラント川の河口にあり、また対岸にはイル・ド・レという良質の塩を産する島がありました。川を利用した物資輸送の終着点と、貴重な天然資源のとれる島との間に位置していたということです。
 ナントはラ・ロシェルの北にあり、こちらはロワール川の河口近くにあたります。フランス一の長さを誇るロワール川が流れるロワール渓谷は現在でも有名なワインの産地で、ナントには流域のワインが集まってきていました。

 そして、ボルドー。こちらは河口の街といった場所ではないものの、ジロンド川の河口からのアクセスがよく、もちろん優れたワインの産地です。

 オランダ人はこれらの街やその近隣に商人の居住地を作り、物資を調達、運搬しました。時にはワインの保存のためにワインを蒸留・熟成することもありましたが、やがてロワール渓谷やボルドーのワインは蒸留酒にしてしまうよりワインのままの方が高く売れることが明らかとなり、ラ・ロシェルに集まるコニャック産のワインが引き続き蒸留されることとなりました。

 そして1651年、コニャックの命運を大きく変えた出来事が起こります。1648年、当時幼少であったルイ14世に代わりに実質的な宰相として権力を握っていたジュール・マザランの推し進めた税制に対する反乱(フロイドの乱)が起きましたが、1651年にコニャックの街に攻めてきた反乱軍を撃退したことが評価され、1653年の反乱終結後に褒美としてコニャックの街のワインと蒸留酒にかかる税と関税が免除されたのです。お酒の歴史は現代までなお続く、課税との戦いの歴史という一面がありますが、そう考えると、この免税という処置は驚くべきことです。コニャックの街はこの革命的とも言える経済的利点を生かして近隣の都市をしのぐ経済的発展を遂げ、地域全体の商業の中心地となりました。もちろん目玉商品はブランデー。もとよりブランデー向きのブドウを産する土地柄でもありましたが、何よりもお金があれば、より良質なブランデーを生むための試行錯誤もできるでしょう。現代まで続くコニャックの名声は、この時に始まったと言われています。

 一方、一足先に誕生したアルマニャックですが、こちらは独自の発展を遂げたものの、コニャックと違い商業的輸送のできる河川がなかったため、アルマニャックを作るガスコーニュ地方は外界からやや隔絶された環境でした。そのためかなり最近まで輸出が難しく、ブランデーとして最古のブランドではあるものの、コニャックほど世界に浸透はしませんでした。どちらかというと、この地方の地酒として、ゆっくりと着実に成長をしてきました。

 特徴的なのが1818年に特許を取得したアルマニャック式蒸留器と呼ばれる小型の円筒形の蒸留器で、なんと移動させることが可能です。台車に蒸留器を載せてブドウ農家を移動して周ることで、各農家で独自にアルマニャックを作ることが可能になります。コニャックが諸外国に輸出され、世界市場の荒波によって鍛えられ洗練されていったのと対照的に、アルマニャックは小規模な製造所で職人的に生産されています。現代風に言えば「クラフトブランデー」などと呼ぶのかもしれません。

前半はここまで。後半に続きます!

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