バーとお酒の入門講座

バー初心者の方を対象に、バーならではのマナーや楽しみ方、お酒に関する基本や雑学、豆知識を書いていきたいと思います。バーに興味はあるけれど、何だか最初の一歩が踏み出せない、そういう方の一助になれば幸いです。

ラム酒の起源と歴史 前編

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  今回はラム酒の起源と歴史についてです。ラムではなくラム酒というとなんとなーく素人っぽくて抵抗があるのですが、羊のラムとの混同を避けるために、タイトル上ではラム酒としております。ということで、ここからはラム酒をラムと呼んでいきたいと思います。

 

 

ラムとは

 

 まずはラムとは何かという定義から見ていきましょう。原則的なこととしては、サトウキビから作った蒸留酒で、生のサトウキビをしぼったジュースから作るアグリコール・ラムと、サトウキビを煮詰めて砂糖を精製したあとのモラセスと呼ばれる糖蜜で作るトラディショナル・ラム、サトウキビのジュースを煮詰めたシロップから作るハイテストモラセスと、原料のサトウキビをどう扱うかにより大まかに3種類にわかれます。

 アグリコール・ラムは生のサトウキビジュースを保存することが難しいため、収穫期にしか製造することができません。生産量と生産機会の少なさから、従ってどうしても高価になりがちです。トラディショナルとハイテストモラセスは糖蜜やサトウキビシロップが冷蔵保存できるため一年中生産が可能です。よく知られるラムのほとんどはこちらになるでしょう。そしてアグリコール・ラムはマルティニーク諸島をはじめとした主に旧フランス植民地の国々、トラディショナルラムやハイテストモラセスは主に中南米大陸やカリブ海の旧イギリス植民地、旧スペイン植民地の国々で作られています。とはいえ、近年はそれだけでなく日本や東南アジア、オーストラリアなど、世界各地で作られるようにもなっています。

 また、樽熟成の度合いによっても、全く樽熟成をしていないホワイトラムから熟成期間が3年未満のゴールドラム、3年以上のダークラムに分かれ、その他にフルーツやハーブ、香辛料などを漬け込んだスパイストラムがあります。

 

サトウキビについて

 

 ラムの起源についてお話する前に、原料であるサトウキビについて触れておきましょう。ラムの主要な生産地ということで、中南米やカリブ海地域の原産と思いきや、原産地はニューギニアやインドと言われ、ヨーロッパ世界との接触はアレクサンドロス大王のインド遠征が最初と言われ(ヨーロッパに持ち帰られたかは不明)、中世になるとイスラム商人との交易によってサトウキビから作られた砂糖が高値で取引されるようになりました。ヨーロッパ、とりわけ中心地であった地中海の北側の気候ではサトウキビは栽培できなかったからです。エジプトとシチリアに持ち込まれることで貿易は活性化し、イスラム商人は莫大な利益を得ました。

 しかし中世のヨーロッパとイスラム世界との関係はイスラム王朝である後ウマイヤ朝のイベリア半島(スペインとポルトガルのある半島)進出や、十字軍の遠征に代表されるように断続的な戦争状態にありました。したがって仮にも敵であるイスラム商人に利益を与えるよりは、自分たちでサトウキビを育てられる土地を探そうと考えるようになりました。そうしてイベリア半島のレコンキスタ(国土回復運動)とアフリカ大陸や新大陸への進出が連動する形で、それらの新しい土地でのサトウキビ栽培が盛んになっていったのです。もちろんこれが新大陸、ヨーロッパ、アフリカ大陸を結ぶ三角貿易の端緒となります。

 

ラムの起源

 

 さてそんなダイナミックな情勢の中、ラムというお酒はどのようにして生まれたのか。サトウキビ栽培の目的はあくまで砂糖であり、ラム目的ではなかったのに、どこでラムが登場したのか。最古の記録はポルトガルの初代ブラジル総督トメ・デ・ソウザによるもので、『奴隷は「カシャッソ」を飲めれば抵抗せずに進んで働いた』というものです。カシャッソは現代でもブラジルの国民的なお酒となっているカシャッサの原型ともいえるお酒で、アグリコールラムに近いものと言われています。これを用いたカイピリーニャというカクテルが有名ですね。プランテーションの領主はワインやブランデーを飲む一方で、カシャッソは砂糖を精製した後の廃棄物から作ったものなので、その程度のもので奴隷が言うことを聞いてくれるのならばお酒を飲むことも容認しようというわけです。

 当時は植民地同士や植民地と外国の交易は厳しく禁じられていたものの、1647年にはカシャッサを飲めるのは奴隷だけと定め、例外としてオランダの支配下にあったベルナンブーコの住民に売ることのみ許可しました。ポルトガル政府はラムを健康に悪い厄介ものと考えていましたが、商売敵に社会問題のタネを輸出するのはかえって好都合だろうという思惑でした。この当時のラムの製造については不確かなことが多いとされ、その原因は植民地運営についてラムの製造は些細なことであるという点、そして不道徳な密造酒開発の記録など不用意に残さなかった点だとされています。したがってスペインとフランスの領土であったカリブ海諸島でラムの蒸留が行われていた「記録」はないものの、両国とも本土においては日常的に蒸留を行なってきており各植民地にサトウキビプランテーションを有していてサトウキビジュースや糖蜜が大量に生まれる中で、全く蒸留を思いつかないというのは少し信じがたいこだと考えられます。

 さらに1650年にフランス人聖職者ジャン・バティスト・デュ・テルトルがマルティニーク島に蒸留機を持ち込んだり、ジュネヴァの製造経験から高度な蒸留技術を持っているオランダ人がカリブ海諸島で砂糖を盛んに精製したりしたため、記録に残すことなくラムの貿易を発展させていたのではないかとも言われています。

 こうした状況がついに記録として報告されたのは1651年、イギリス植民地バルバドスを訪れた人間によってでした。「この島で造られている主な酒はラムバリオン(rumbulion、乱痴気騒ぎ)」、別名キル・デビル(kill-devil,悪魔殺し)だ。サトウキビを蒸留して造った、強くて、身の毛もよだつ、恐ろしい液体だ」そう語られています。これはラム(rum)の語源候補のうち最古の記録で、これがラムの語源であるとするとともにラムの生まれた年代を確定するものとして引用されがちなのですが、正確な源であるかどうかは、本当のところは定かではないそうです。ちなみに「ラムバリオン」という呼び名の語源については議論が盛んなようで、ラグビーでおなじみ、格闘を意味する「スクラム(scrum)」、騒々しい、だらしないといった意味合いの「ラムバシャス(rumbustious)」だとする説もあります。当時の人々が残した資料にはラムがいかに粗雑でひどいものかが描かれ、ラムの愛好家は喧嘩っ早いとする文書が残っているなど、信憑性があるような気もします。

 一方で、これまで言及したフランス、ポルトガル、スペインと違って、イギリスは守るべき地元のワインやブランデーの利権がなかったので17世紀後半にはラムをいち早く商業生産するようになりました。植民地の行政府はラムの製造と他のイギリス植民地への輸出を許可し、起業家達は製造法を会得、すぐさま商売を開始。すると、すぐに密輸が問題となり、バルバドスではまだ社会悪とされていたラムが氾濫するようになり、政府側の規制もあまり功を奏すことはなかったようで、販売ライセンスをもつお店が100軒以上に膨れ上がるわ、ライセンスなしで販売する蒸留所もあるわで過剰に供給されたラムが人々の生活を破綻させていったのです。こうした犠牲を払いつつも、バルバドスでラムは次第に品質を向上させていきました。

 ということで、ラムの起源自体はあやふやですが、バルバドスでラムと呼ばれるようになり、発展の礎が築かれたと言えそうです。ジンやウォッカもそうですが、どうも蒸留酒は生産手段が一般に広まるとそのアルコール度数の強さと適当に造った品質の低さから貧困層のストレス解消に使われたり犯罪の温床になったりして社会問題となり、規制と改良を重ねることで品質を向上させていき、今日のような形にまでなっているようで、ラムもご多分に漏れずといったところのようです。

 

アメリカ大陸・ニューイングランドのラム

 

当初、北アメリカ大陸にはラムはすぐには入って来ず、イギリスのものもカリブ海諸島でばかり取引をされていました。しかし原料の糖蜜はというとすぐにニューイングランド、すなわち現在のメイン州、ニューハンプシャー州、バーモント州、マサチューセッツ州、ロードアイランド州、コネチカット州を含むエリアで人気となりました。そうすると蒸留酒が造られるのは時間の問題。1657年にマサチューセッ州の高等裁判所がアルコールの過剰生産を指摘した記録があり、これがこの地域におけるラムについての最古の記録とされています。それでもニューヨークのスタテン島で1664年、ボストンで1667年、フィラデルフィアで1671年にはラムが製造されていたとの記録があり、蒸留や酒取引について知識のあるスコットランドやアイルランドからの移民が活躍したこともあり次第にラムの蒸留が広まっていったことが窺えます。それは糖蜜の広まりも意味するところであり、主婦によって料理に、医師によって薬に使用されるようにもなりました。またラムの生産が安定してくると、温めてさまざまな食材や果物と混ぜて飲む習慣が生まれたりもしました。ラムのカクテルの原型のひとつと言えるでしょう。ストレートで飲む人もいましたが、特に当時大きな影響力を持っていたピューリタンには忌み嫌われ、一目でわかるくらいに酔っ払ったものに対しては罰金が課され、丸一日樽から頭と手足だけを出して晒し者にされ、その後1ヶ月間にわたって赤い文字で「D」(drunkardの頭文字) と書いた服を身につけなければならなかったそうです。

 少し話が逸れますが、1850年のナサニエル・ホーソーンがこの17世紀ころのニューイングランドを舞台として描いた代表作「The Scarlet Letter」(邦題:緋文字)には不倫の罪により「A」という文字を書いた服を着せられた女性が主人公として登場しますが、この「A」はadulteressの頭文字。どうやら17世紀のピューリタンが支配するアメリカにおいてはこういった罰を与えることがしばしばあったようなのですが、「清教徒」というくらいです、清く正しくという戒律を非常に重んじる価値観が支配する世の中においてラムがいかに恐ろしい存在であるかを想像するのには良い材料なのではないかと思います。

 また17世紀も終わり頃になるとバルバドスのラムの品質が向上し高級化、ニューイングランドのものは質より量の粗悪品という構図となり、ちょうど半世紀後のオランダのジュネヴァ、イギリスのジンの関係を暗示するような形になっています。

 

通貨としてのラム

 

 一方でラムは安く大量生産ができるようになると通貨の役割も持つようになりました。イギリスが銀貨の輸出を禁止していたため植民地は慢性的に通貨が不足、物々交換に頼らざるを得なかったのです。1700年には賃金の支払いが使われるようになり、やがて土地の取引の代金としてさえラムが使われるようになりました。そしてラムが通貨同然の存在だとすると、密輸が横行するようになります。関税をラムで支払う。それを避けるために役人にラムで賄賂を贈る。もうしっちゃかめっちゃかですが、そうしてラムの密輸は世界規模のビジネスになっていきます。

 ラムとその原料の糖蜜は1700年にはもっとも取引量の多い主要産物となっており、南北アメリカのイギリス植民地が手にする利益の大部分を占めたと言われておりますが、これもあくまで「公式の」記録であるため、多くの商人が取引を監視する役人を買収していたとされ、実際のところは桁違いに大きな市場であったと考えるのが妥当と言われています。

 

三角貿易

 

 そしてラムは、後に三角貿易として知られるようになる取引を後押ししました。ラムの歴史を語る上で避けられない要素のひとつと言ってよいでしょう。一般にこの時代の三角貿易といいますと、イギリスから雑貨や武器をアフリカに輸出、アフリカからは黒人奴隷をアメリカ大陸やカリブ海地域の植民地へ、植民地からイギリスヘはタバコ、綿花、砂糖、コーヒーなどが輸出されたというものですが、ラムの三角貿易は少し異なります。アフリカからカリブ海地域の植民地へ黒人奴隷が輸出され、そこの労働力でサトウキビと糖蜜を生産し、それがニューイングランドに運ばれてラムとなり、そのラムでもってアフリカの黒人奴隷が買われてまたカリブ海植民地へ、という形です。

 とはいえ、ラムがアフリカの奴隷貿易を生み出したというわけではありません。奴隷貿易はアラブ人が遅くとも13世紀には行なっていたとされています。転機となったのは1655年、クロムウェル統治下のイギリスがスペインからジャマイカを奪い取ったこと。現代でも一大産地となっていることからもわかるように、ジャマイカの土壌と気候はサトウキビの栽培に最適でした。しかも島の広さはそれまでメインの生産地とされてきたバルバドスの20倍以上。豊富な水と燃料があることも相まってたちまちラム生産のメッカとなり、それが他の島々にも波及、アフリカからの奴隷の犠牲のもとに成り立つ三角貿易が盛んとなりました。

 カリブ海地域では元々は漁業をはじめとして穀類や野菜の栽培、畜牛の飼育も盛んでしたがサトウキビ栽培の方が儲かるため皆そちらに乗り換え、食料品は異なる地域からの輸入に頼るようになりました。カナダのニューファンドランド沖のような寒冷な海で獲れるタラが今でもこの地域の人々に好まれているのはこの時代の名残とされています。18世紀をつうじて奴隷制度は徐々に下火になっていき、1807年にイギリスで禁止令、1833年に奴隷制度が廃止となります。しかしその他多くのラムにまつわる出来事と同様、正確なところは曖昧であり、その後の差別なども含めれば、19世紀前半くらいに「一応」廃止された、のような表現になってしまうかと思われます。

 

 さて、前編はここまでにしておきましょう。後編ではアメリカ独立戦争との関係や、ラムといって多くの人が想像するであろう海賊や海軍との関わりを語っていきたいと思います。

 

参考文献