バーとお酒の入門講座

バー初心者の方を対象に、バーならではのマナーや楽しみ方、お酒に関する基本や雑学、豆知識を書いていきたいと思います。バーに興味はあるけれど、何だか最初の一歩が踏み出せない、そういう方の一助になれば幸いです。

ウォッカの起源と歴史

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 さて今回はウォッカの起源と歴史についてのお話です。

 

 ウォッカとは

 

 まずはウォッカとはどのようなお酒なのでしょうか。伝統的には大麦・小麦・ライ麦・じゃがいも等の穀類、最近はそれらに加えてとうもろこし、葡萄、りんご等を原料として糖化や発酵をさせて、そうして得られた液体を蒸留したもの。非常に大まかに言えばこれがウォッカの定義です。

 ジンでいうジュニパーベリーやラムのサトウキビ、テキーラの竜舌蘭のようにこれといった決まった原料がなく、原料の味を楽しむというよりは、原料から得られた無味・無色・無臭の純然たるアルコールの味を楽しむためのお酒、それがウォッカです。

 ロシアのイメージがある方も多いと思いますし、実際に一大生産地であることに違いはないのですが、ロシアに限らず、テキーラや特定のウイスキーの様にどこどこ産でなければならないということもありません。ウォッカには特徴がないのが特徴ということができるでしょう。それを長所として、優秀なカクテルベースともされています。特徴がないだけにウォッカの味そのものにはあまり違いがありません。

 もちろん銘柄ごとの特徴はあり少し甘みを帯びたものからスッキリしたものまでありますし、アルコール度数によっても印象は変わってきます。しかし他の蒸留酒に比べると、違いは微妙なものであると言わざるを得ません。したがって歴史的にはいかに不純物を取り除き澄んだ味わいにするかに焦点が当てられてきました。

それがある程度のクオリティに達すると、瓶のデザインやブランドイメージにより魅力や価値を創出するようになっていきました。

 

ウォッカはどこで生まれたか

 

 それではそんなウォッカはどこで造られるようになったのか。やはりロシアのイメージが強いかとは思いますが、ポーランドも有名なウォッカが沢山あります。両国ともに自分の国が起源であるとして現代においても論争が起こっていますが、今のところ、12世紀〜14世紀に東欧のどこかで造られるようになったと、あいまいなものとなっています。

 13世紀末に生まれたモスクワ公国にビザンツ帝国経由で蒸留技術がもたらされたのが始まりという説や、1259年にロシア北西部のノヴゴロドに交易所を設立したハンザ同盟のドイツ商人が蒸留技術を伝えたという説、ジェノヴァ人がクリミア半島に持ち込んだ説、モンゴル帝国支配下のタタール人が持ち込んだ説、諸説ありますが、確たるものはないようです。確実に言えるのは西ヨーロッパ人が蒸留された飲料を東ヨーロッパに持ち込み、それがきっかけでウォッカが生み出されたということくらいだそうです。

 

ポーランドのウォッカ

 

 とはいえ、主にはロシアとポーランドがウォッカの発展と普及に寄与してきたのは間違い無いので、ここからは両国のウォッカがどのように進化してきたのかを見てみましょう。まずポーランドですが、16世紀初頭にはウォッカを周辺国に輸出し始め、1534年には、ある植物学者がウォッカの効能を称賛し、性欲増進と受精率の向上に役立つとした資料が残っています。17世紀末には蒸留家のヤクプ・カジミエシュ・ハウルによって伝統的な小麦ではなくライ麦からウォッカを造る製法が発表され19世紀初頭にはジャガイモが使用されるようになりました。

 19世紀半ばにはジャガイモの胴枯れ病の蔓延やロシアによる課税などで苦境に立たされた時期もありましたが、その後ポーランドのウォッカ産業は盛り返し、ズブロッカを先頭にウォッカ世界のリーダー的存在になりました。ちなみにこのズブロッカとはズブロッカ草、別名バイソングラスで香り付けをしたウォッカで、日本においても定番銘柄のひとつなのですが、男性の性的能力が向上するとか、しかし当のポーランド人男性は女が飲むものだといって飲まないとか、色々逸話があるようなのですが、アメリカには輸入されない期間が長く続きました。バイソングラスに含まれるクマリンという成分が抗凝血作用、つまり血液を固まりにくくする作用があるということで、その輸入がアメリカの法に触れてしまう都合上、2009年までは輸入はされませんでした。現在アメリカに出回っているものにはバイソングラスは使われず、人工的に香りがつけられているそうです。

 

ロシアのウォッカ〜歴代皇帝と革命 

 

 次にロシアのウォッカを見ていきましょう。ロシアのウォッカは前身であるモスクワ大公国の歴代皇帝の施策によって大きな影響を受けました。モスクワ大公国のイヴァン3世は領土拡大に成功したことで「大帝」と呼ばれるようになりましたが、その要因のひとつは、ウォッカの専売制を敷いて税収を確保、戦費の多くをまかなうようにしたからだとも言われています。さらに後継者で「雷帝」として有名なイヴァン4世は自分の地位を脅かしかねない貴族を手懐けるために新たな特権階級を作り出し、彼らには土地を与えるのみならず、貴重なウォッカを飲める特権と専用の酒場を設けました。

時代が進むとウオッカは洗練されていき、味そのものよりも自分たちが「どんなウォッカを飲んでいるか」に焦点を当てられるようになったのですが、これはそのはしりと言えそうです。

 国名がロシア帝国となってからは、ウォッカの使い方が税制や階級制度などのハード面から、外交の場の対人関係というソフト面で使われるようになっていきます。中でも初代皇帝のピョートル大帝はだいぶウォッカに傾倒していたようで、支持者への褒美としては言わずもがな、外国からの来賓にウォッカを勧めて口を軽くさせたり、大量に飲ませて意識不明にさせたり、果ては外交官試験にも使ったそうです。バケツ一杯のウォッカを飲んでも分別のある話ができるものだけが外国勤務を許されたのだとか。

 さらに1695年、ピョートルは「全冗談全酩酊狂気公会」を結成。会員に課した掟は「毎日酔っ払うこと。決して素面で寝てはならない」と、とにもかくにも飲んでどんちゃん騒ぎをするだけの団体だったようです。さてこのピョートル大帝、身長2m13cmの大男で、常に斧やハンマーを降るって生きてきた怪力の持ち主。つまりピョートル大帝の治世というのは超超体育会系ゴリマッチョの大酒飲みジャイアンが権力を持った、というイメージをするとわかりやすいのかもしれません。もちろん、こんなことは教科書には載っていなかったと思いますが・・・。

 18世紀末のエカチェリーナ2世の時代になると、ウォッカの専売制を廃止し、安価な公定価格でウォッカを製造販売する許可証を競売の形で売りだす政策を採用しました。それにより、農奴を含む一般大衆もウォッカを飲めるようになりましたが、その副作用として、ウォッカの品質はしばしば損なわれたと言われています。

 

 こうして、貴族階級から農民までウォッカが行き渡ると、富裕層は最高級のウォッカを求めるようになり、自分たちの飲むウォッカの量と質により自らの地位を誇示しました。最高級といってももっとも価格の高いものというよりは、一族に伝わるレシピの自家製ウォッカを客に振る舞っていました。そしてそれを提供するときのグラスやピッチャーもクリスタルや銀の高級なものを用いるのが作法とされていたようです。

 その流れで、ロシアの酒器はバラエティに富んだ芸術的なものが沢山作られるようになり、また多くの芸術作品にも取り入れられるようにもなりました。ウォッカがいかに富裕層から大衆にまで浸透していたかを示す数多くの歴史的証拠が残されています。そしてロシアの作家といえばドフトエフスキーを真っ先にあげる人も多いかと思いますが、その有名な代表作「罪と罰」の一部分はもともとは「酔いどれ」という作品であったというくらいです。

 19世紀末、ウォッカはロシア国民にあまりに浸透しすぎたため、今度は過剰な飲酒が社会問題となりました。18世紀前半のイングランドにおける「ジン・クレイズ」と同様の現象です。時のアレクサンドル3世はこの過剰な飲酒習慣がこの頃ロシアにまで波及してきた産業革命による工業化計画を阻害しているとして、エカチェリーナ2世が廃止した専売制度を復活させましたが、問題は解決するどころか悪化。ウォッカの販売が認められた国営の酒場では食べ物を提供しなかったので、客はすぐに泥酔してしまったのだとか。

 続くニコライ2世も過剰飲酒を抑制すべく動きました。一説によると1904年の日露戦争では、ご存知のとおり日本が勝つのですが、それは水平と兵士が酔っ払っていたことにも原因があったとされています。それを受けて第一次世界大戦の時は同じ轍を踏まぬよう、ウォッカの製造販売を禁止するという、かなり強力な手を打ちました。しかしこれも裏目に出ます。戦争、ましてや小競り合いではない世界大戦です。巨額の戦費が必要になる時に税収が3分の2に落ち込んでしまったのです。さらに悪いことに、それでもロシアの人々はウォッカを飲み続けました。ほとんどの列車が戦争により部隊の移動用に接収されたため、本来大都市に運ばれるべき余剰穀類が農民のもとに残ったままになり、皆それで密造酒を作ったのです。
 戦争が長引くと密造酒の生産がより盛んになる一方で余っていたはずの穀物は大都市に供給されなくなり、都市部での穀物の欠乏が始まります。そしてそれは1917年のロシア10月革命の最初の火種となりました。

ソビエト連邦誕生の背後にも、まさかのウォッカが影響していたということです。教科書には・・・載っていません。

 ソビエト連邦誕生直後には密造者を銃殺するくらいの厳しい節酒措置が採られましたが、次第に緩和されていきました。寛容になったということではなく、世界大戦や革命により疲弊した経済を立て直すには酒税からの収益がどうしても必要だったのです。

 1930年、スターリンの時代になると、積極的にウォッカの増産を推進しました。諸外国に負けない工業化のためには過剰飲酒のリスクを取ってでも税収の増加が必要との判断です。さらにスターリンは禁酒協会を禁止し、郊外の邸宅で非公式の集まりを頻繁に開催しました。そこでは部下とのつながりを強固にする手段としてウォッカを使ったり、信頼関係がそれほどでない相手にはウォッカを大量に飲ませて情報を引き出そうとしたりもしました。そうです。超超体育会系ゴリマッチョの大酒飲みジャイアン、ピョートル大帝の再来です。

 スターリンの死後もアルコール依存症患者は増え続けたため、1985年に共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは第一次世界大戦時のニコライ2世に倣って禁酒協会を設立し、健康増進のための運動を奨励し、あらゆる組織に支部を設けさせ、それは事実上の強制入会とされました。さらにウォッカ以外のお酒にも走らないように全てのブドウ畑のブドウの木を引き抜かせるという徹底ぶりです。その徹底ぶりが大きな反発を招き、この政策はわずか2年で終了しました。これがゴルバチョフの失脚、ひいてはソ連崩壊・冷戦時代の終焉・アメリカが唯一の超大国に、という、来たる21世紀の世界情勢を大きく動かした世界史上の大事件。そのひとつのきっかけにもなったと言われているのは驚きです。

 

アメリカでのウォッカ〜カクテル文化や若者文化との融合

 

 さて、これまでポーランド、ロシアを中心にウォッカの歴史を見てきましたが、ソ連が崩壊する頃にはすでにウォッカは世界的なお酒となっていました。その中心地であるアメリカとウォッカの関係を、ここからは見ていきたいと思います。

 アメリカは今でこそトップクラスのウォッカ消費国ですが、20世紀初頭までは全くといっていいほど注目はされていませんでした。転機となったのが1917年のロシア革命。革命により、19世紀末のアレクサンドル3世の時代に皇室御用達の認可まで受けていた、高級ウォッカのスミノフ社が国有化されることとなりました。皇帝に愛され、世界一の大富豪とも言われた創業一族のスミノフ家でしたが、それが仇となり、社会主義革命の後には富を独占してきた者として世間の敵となり、処刑される者も出てきてしまいました。

 スミノフ社・社長のウラジミール・スミノフはそんな情勢の中、命からがらフランス・パリに亡命。そこで細々とウォッカを作るようになりました。同じくロシア革命を逃れてアメリカに亡命していたルドルフ・クネットは禁酒法が廃止となった1933年、革命前の帝政ロシアを懐古したのか、当時宮廷で親しまれていたスミノフという商標でウォッカを売り出そうとしてウラジミール・スミノフを訪ねると、アメリカ・カナダでの商標権と製造権、そして木炭による濾過技術を買い取りました。

 最初はほとんど売れませんでしたが、1939年にヒューブライン社が参画しウォッカが無味無臭であることを宣伝文句にしたところ、徐々に売上が上がっていきました。そんな中の1941年、ウォッカベースの超有名なカクテルが、これまた有名な逸話と共に誕生します。ヒューブラインの会長、ジョン・G・マーティンがロサンゼルスでバー「コックンブル」を経営する友人、ジャック・モーガンを訪ねた時のこと。モーガンはジンジャー・ビアの在庫を大量に抱えて頭を悩ませていました。一方のマーティンは売れ残りのウォッカをたくさん抱えている。そこで双方の在庫を組み合わせて売り出そうとなったところへ、モーガンの女友達、オズライン・シュミットが登場。彼女は父親から受け継いだ銅製品の工場の銅製マグカップを売り捌きたかった。そうして3者の思惑が一致した結果、皆さんご存知「モスコーミュール」が考案されたというわけです。モスコーミュールの登場によってアメリカでのウォッカはさらに浸透していくこととなりました。

 第二次世界大戦が終結し、世論の反ソヴィエト感情が高まると人々のウォッカ離れが危ぶまれましたが、それは杞憂に終わり、1962年に公開された映画「007 ドクター・ノオ」においてジェームズ・ボンドが“Shaken, not stirred.” すなわち「ステアせず、シェイクで」という有名なセリフとともにウォッカマティーニを注文したのを転機として、ウォッカの需要は急増しました。

 最終的にウォッカの販売戦略として決定的だったのは、リチャード・ニクソン大統領の政策の一環で、ソ連にペプシコーラの工場を建設するかわりに、財政的に厳しかったソ連がその支払いをウォッカでしたこと。つまり物々交換というわけです。ペプシが販売することになったのはソ連産の「ストリチナヤ」。日本でも目にすることが非常に多い銘柄です。流通を受け持った会社の活躍もあり1975年、アメリカでのウォッカ消費量はバーボンを抜き、ついにアメリカ国民に一番飲まれる酒となりました。時代背景としてベトナム戦争によるアメリカの分断があり、バーボンやジンは戦争を推し進めた古臭い旧世代の価値観を象徴する飲み物であり、ウォッカは東西対立やそれに起因する戦争をバカらしく思う当時の若者世代の「洗練された飲み物」であったとも考えられます。端的に言えばウォッカは口が臭くならない流行りの飲み物、バーボンやジンはクセの強いオッサン臭い飲み物、という扱いになったということでしょう。また、スクリュードライバー、コスモポリタン、ハーヴェイ・ウォールバンガーなど、今では定番となったウォッカベースのカクテルがこの頃に登場しているのも、ウォッカの人気を裏付けるものと言えるでしょう。

 1980年代後半、アメリカの経済成長が進み、逆にソ連が勢いを失っていくと、お互いの通貨価値の違いが大きくなり、ストリチナヤとペプシコーラの交換では釣り合いが取れなくなっていきました。同時にこの頃のソ連はアメリカとの間で軍縮の協定を結んでおり、冷戦下に大量に建造した軍艦などが余っている状況でしたので、ストリチナヤで足りない分は軍艦で支払うことに。その結果、なんとペプシは世界第6位の海軍を持つことになったという、ウソのようなホントの話があります。

 

現代とこれからのウォッカ〜ブランディングと社会への浸透

 

ここまで20世紀までのウォッカの歴史をみてまいりましたので、ここからは21世紀に入ってからのウォッカの情勢についてお話したいと思います。ポーランド、ロシアに代表される東欧の国で生まれたウォッカはこうして世界に広まったわけですが、依然として「クセのない、洗練された、カクテルベースとして優秀」という特性は変わらずにいます。飲み物そのものとしては個性がないのが個性、ということなので、ウォッカを製造する各社はボトルのデザインや商品にこめられた思い、ストーリーをアピールすることでブランドとしての差別化を図っています。例えばワインのボトルの形は主なもので大体5パターンくらいしかありませんし、ウイスキーの場合もあまり多くありません。形を統一した方が生産コストを圧縮できるのは想像に難くないでしょう。ジンやラム、テキーラなどもボトルのデザインでブランドをアピールしている部分はあるものの、ウォッカはその色がとても強いです。デザイナーによるユニークなボトルが多く、なんだこりゃと思ってしまうボトルは大体ウォッカだったりします(次点テキーラ)。

 LGBT、アフリカ系アメリカ人、ヒスパニックや女性といった社会問題になることの多いコミュニティへ訴求する広告を打ったり、コミュニティのイベントにブランドとして協賛したりすることで商品にメッセージ性を持たせることもしばしば行われています。

 日本においては、ウォッカの個性通り、ブームになることもなければ別段時代遅れとされることもない、良くも悪くも安定した人気が続いています。カクテルベース、あるいは缶チューハイのベースとして、いつのまにか飲んでいるという方がきっと多いことでしょう。ちなみにチューハイの語源は「焼酎ハイボール」ですので、本来チューハイと言えば焼酎ベースなのですが、皆さんご存知キリンの氷結がウォッカベースの缶「チューハイ」として発売され大ヒット。ウォッカの個性であるクセのなさがヒットの要因と言われており、他社もそれに追随することで、ウォッカベースのチューハイが珍しく無くなったということです。

さて、最後になりますが、近年、ウォッカの母国のひとつであり最大の消費国であったロシアで興味深いデータが出ています。2019年のWHO (世界保健機関)の報告によると、ロシアのアルコール消費量が2003年から2016年にかけて43%も減少したとのことです。平均寿命の短さやアルコールに付随しての諸問題からくる人口減少を危惧したプーチン大統領が推進した、アルコール飲料の販売規制や健康的な生活習慣の奨励などが要因とされています。1990年と比べて、2018年のロシアの平均寿命は10歳以上長くなったそうです。

これまで見てきたように、歴史的にはアルコールやウォッカの生産や消費を禁止・抑制する政策は失敗に終わってきたのですが、今回のものは出てくるであろう密造酒や財政の問題なども織り込んだ上での10年がかりの政策ということで、歴史に学んだ形となっています。10年を過ぎた今、ロシアがどのようにウォッカと付き合っていくのかは、興味深いところです。

 

 

参考文献