バーとお酒の入門講座

バー初心者の方を対象に、バーならではのマナーや楽しみ方、お酒に関する基本や雑学、豆知識を書いていきたいと思います。バーに興味はあるけれど、何だか最初の一歩が踏み出せない、そういう方の一助になれば幸いです。

ジンの起源と歴史 後編

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 ジンの起源と歴史 後編です!

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 ジュネヴァ、ジンになる

ジュネヴァがイングランドに渡ったのは1585年、スペインとオランダ支配権を巡って勃発した英西戦争が最初のきっかけと言われています。1588年のアルマダの海戦が有名ですが、当時のスペインは「無敵艦隊」と呼ばれるほどの軍事力を有しており、オランダに派遣されたものの逃げるようにイングランドに帰る兵士も多かったのだとか。しかしその際にただ帰るのではなく、きちんとジュネヴァを持ち帰ったのだそうです。

 当時のイングランドではジュニパーをスピリッツの風味付けに使い始めたばかりだったので、そこまで一気に浸透はしませんでしたが、17世紀をつうじて嗜好品として、医療用の強壮剤として、進化を遂げていきました。しかし富裕層がオランダのジュネヴァとフランスのブランデーを嗜む一方で、本場オランダのものとは似ても似つかない安い粗悪品が出回り、貧しい労働者階級に好まれるようになりました。もちろん現代のジンとは全く違う代物ですが、オランダのジュネヴァと区別するために、イングランド産のものを一足早くジンと呼ぶことにします。

さて、17世紀後半にイングランドにジンが広まった主な要因としては「安価に手に入ること」「目新しい味であること」そしてそれが「輸入ではなく地元で製造されることにより価格と供給が担保されること」の三つだと言われています。そして決定的な要因が1688年に起きた名誉革命です。

名誉革命の詳細は世界史の教科書に譲りますが、結果として起こったことは、フランス寄りでブランデーが好きな国王ジェームズ二世が王座から引き摺り下ろされ、オランダ生まれのオラニエ公ウィレムがその座についたということです。もちろん、新たに王となったウイレムは、フランスのブランデーではなく、オランダのジュネヴァを愛飲していました。

 さらに名誉革命以前のオランダはフランスと領土と宗教をめぐる戦争をしており(仏蘭戦争、1672〜1678)、イングランドも途中までジェームズ二世が親しいこともあってフランス側について戦っていましたが、そのイングランドの王をフランスと敵対するオランダの王が務めることになったため、名誉革命後のイングランドはフランス軍の資金源を断ち、また国内に新たな収入源を見つけるような動きに出ることになります。

 そうして採られた政策が、フランス産スピリッツの全面禁輸やそれまで広く親しまれてきたビールへの増税であり、それと連動するようにイギリス議会を構成する裕福な地主階級が、自らの余剰生産分の穀物を出荷し、多くの人がジンを作るようになりました。

 これにより先程の「安価に手に入ること」「目新しい味であること」「安く地元で手に入ること」という条件が十分すぎるほど満たされたことを背景に、17世紀末から18世紀初頭にかけ、イングランドのジンの生産量と消費量は飛躍的に向上していきます。ただし、飛躍的に向上、というといかにもポジティブな印象を受けますが、実際のところは誰でも彼でもとにかくジンを作りまくり、そして飲みまくる。17世紀の粗悪品のままの、オランダのジュネヴァには程遠いままのもの、これがイングランドで「ジン」という今日まで伝わる愛称を獲得し、のちに「ジン・クレイズ」(狂乱のジン時代)と呼ばれる時代に突入していくわけです。

 

ジン・クレイズ

 

 18世紀前半を通じて大量に広まった粗悪なジンがもたらしたものは、お酒の悪い面のすべてを余すところなく表現したような、惨憺たるものでした。この時代は富裕層と貧困層の差が激しく、その一方で貧困層も安かろう悪かろうを極めたかのようなジンを手にするくらいの収入はあったため、富裕層が楽しむために高級な酒を飲む一方で、貧困層はそのみすぼらしい生活を忘れるために飲んだと言われています。富裕層も富裕層で、1702年に即位したアン女王を文字通りの筆頭に、しょっちゅう飲みすぎていたのですが、貧困層がそれを粗悪なお酒で真似した形です。

 ひとくちに粗悪といっても、もしかしたらなかなか想像がつかないかもしれません。では具体的にどのようなものだったのか。一説によると、オランダ産のきちんとしたジュネヴァがモルトのような味わいだとされる一方で、この時代のジンは低品質の穀類を使って何回も蒸留を繰り返して95度以上のスピリッツを作り出し、テレピン油、ヴィトリオール油、ミョウバン、砂糖、石灰水、ローズウォーターなどを加えた、最終的な度数が約91度というシロモノ。これをちびちび飲むわけでもなく、それまで主役だったビール用の大ジョッキに注がれたそうです。・・・なかなかの地獄です。薬を起源とするジンが、悪魔的お酒になってしまったというわけです。

 アルコール中毒者の増加は序の口として、ジンがらみの犯罪も日常化するようになります。それを受けて次第にジンの過度な生産と流通を取り締まろうという動きが出てきました。1729年から1751年にかけて計8本のジン取締法が成立しましたが、その中でももっとも悪名高いのが1736年のもので、ジンの小売の免許手数料を桁外れの額に値上げし、蒸留酒の自家製造に対する罰金をもうけ、違法行為の通報者には賞金を与えるというものでした。

 その結果なにが起こったか。まずはこの法律が発効する前日に暴徒化した民衆がジンを買い漁りかつてないほどの大騒ぎになったり、密造酒が横行したり、報奨金を得た密告者が群衆に襲撃されたり。何一つ良い結果はもたらさなかったのです。

 そうした阿鼻叫喚の時代を経たのち、1750年代にさしかかると、次第に世の中の悪いことは全てジンのせい、という主張をする人たちが出てきます。貧困、労働力の衰退、乱交、梅毒の蔓延、果ては子供の死亡率の高さまでもがジンのせいにされました。このような世論を受けてか、1751年に最後のジン取締法が成立します。スピリッツの消費税が50パーセント以上引き上げられ蒸留業者や街頭の商人は事実上販売ができなくなりました。

 しかし、実はこの法律以前からジンの消費は減り始めていました。ジンが目新しいものではなくなったこと、この頃に起こった賃金の深刻な低下、さらには海軍から持ち込まれたラム酒の知名度の向上、ビール業界の反撃など、さまざまな要因がありました。

 そうした状況は凶作続きで穀類の蒸留が禁止されたこともあり、1760年まで続きましたが、同じ年に蒸留が解禁されると、ジンは再び大衆の人気を集めました。しかし規制のおかげもあって命取りになるような時代にはならず、価格が高騰したことにより品質の向上を余儀なくされたことも好作用しました。また1823年に可決された法案によって、1800リットル未満の中小規模の蒸溜器では、蒸溜免許が却下されるようになったことも、品質の維持に大きく寄与したものと思われます。大きな規模の蒸留設備を拵え、かつ稼働させるにはそれなりの費用がかかります。ということは、きちんとした価格で売れる品質のものを作る必要があるということです。

この頃には「オールドトム」と言われる少し甘みを加えたジンが人気を博していましたが、従来と違い粗悪な酒の味をごまかすためでなく、世間一般の好みに合わせるために甘みがつけられていたのが大きな違いです。

 

産業革命と質の向上

 

 そうして訪れた産業革命。1827年にロバート・スタインが連続式蒸留器を発明し、1830年にはアイルランド人の消費税収税官イーニアス・コフィーがスタインの発明を改良、自分の名前でこの蒸留器の特許を取得しました。

 連続式蒸留器はその名のとおり途切れることなくアルコールの蒸留を行うことができ、さらに不純物のない高濃度のスピリッツを作ることができます。味をごまかすための余計な材料を入れる必要がなくなりました。当初は砂糖とボタニカルのバランスがうまく取れるようになったことでオールド・トムの人気が急上昇しましたが、次第に健康志向の強いヴィクトリア朝の時代になると甘みのないジンが好まれるようになってきました。現代まで続くロンドン・ドライ・ジンの誕生です。同時に大量生産が可能になったため、アレクサンダー・ゴードン、フェリックス・ブース、チャールズ・タンカレー、ジェームズ・バロー、ギルビー兄弟などの現代まで続く専門の蒸留業者が次々と現れ、品質の向上に尽力したのも見逃せません。

その中のひとつであるフェリックス・ブースが1850年にジンの輸出解禁を議会に認めさせ、その直後からイングランドのジンはまたたく間に世界中に輸出され始めます。さらには1863年にイングランドの植物学者がアメリカから持ち込んだフィロキセラという害虫がヨーロッパ中に蔓延し、葡萄の木を壊滅状態に陥れました。ワインも全滅しましたが、とりわけイングランドにおいてはフランスのコニャックの代わりが求められました。その結果、ジンの消費が急増するという意外な事件もありました。

 そのころには再びの禁酒運動の芽もありましたがそれは下火に終わり、結局は19世紀を通じて流行した「ジン・パレス」と呼ばれる居酒屋の定着を背景に、ジンはイングランドにおいて確固たる地位を築くことになります。

 

アメリカとカクテル文化におけるジン

 

さて、次にアメリカでのジンを見ていきましょう。まずは先程までの19世紀末のイングランドから約3世紀時計を巻き戻した17世紀初頭に頭を切り替える必要があります。オランダとの関わりでいうと、1625年にオランダ人がニューネーデルラント植民地を建設、1640年にこの植民地の総督ウィレム・キーフトがニューヨークのスタテン島にアメリカ初のウイスキー蒸留所を作ったのを皮切りに、アメリカ建国13植民地が形成される1732年までにはジュネヴァがどの居酒屋でも見かけられるようになったといいます。またボルス社の記録によると、18世紀後半にオランダのジュネヴァがアメリカにありえないほど大量に輸出された形跡があるそうです。ちょうどその頃はイングランドがジン・クレイズ、つまり粗悪なイングランド産のジンの蔓延が大きな社会問題になっていたのですが、アメリカではどうしてそのようなことにならなかったのかは気になるところです。

まず考えられるのは、アメリカにおいて作られたジュネヴァがオランダ由来のきちんとした製法によるものだったということ。あるいはオランダから輸入されたものであったことが理由に挙げられますが、もうひとつあるようです。それは、飲み方の問題。イングランドにおいては粗悪なジンをストレートで大量に、というそれはお酒が悪者にもなるだろうというような飲み方でしたが、アメリカの場合はパンチ・ボウルというスピリッツに砂糖・水・柑橘類、スパイスを大きなボウルに混ぜて取り分けて飲む方法が多かったのです。これはカクテルの原点ともいうべき飲み方で、実際にジン・フィックス、ジン・サワー、ジン・デイジー、ジン・フィズといったクラシックなカクテルが生まれています。そしてそれらのカクテルは高級ホテルのバーや西部劇に出てくるような酒場でバーテンダーによって振る舞われ、バー文化、カクテル文化の成長とともにジンが普及していきました。

なお、アメリカでカクテルづくりが始まった頃に使われていたのは実際にはオランダ式のジュネヴァでしたが、先ほど述べたように1850年にイングランドにおいてフェリックス・ブースが議会に働きかけたことによりイングランドからアメリカへジンが輸出されるようになります。1872年にはアメリカで初めてのドライジンの蒸留所が建設されましたが、当時はまだ甘めのオールド・トム・ジンをベースとしたものが一般的で、ジンと言えばオランダからのジュネヴァかオールド・トム・ジンを指すものでした。この傾向が変わる大きな要因となったのが、ドライ・マティーニの登場でした。その人気によって19世紀末にはジュネヴァやオールド・トム・ジンは時代遅れのものになったと言われています。

 

禁酒法とジン・カクテルの発展

 

20世紀入ると、ジンがもともとは薬用に使われていた歴史を利用した宣伝もあり、女性にも受け入れられるようになりました。1920年からはかの有名な禁酒法が施行され、表向き酒場は消滅しましたが、ニューヨークで3万軒もあったと言われるスピークイージーと呼ばれるもぐりの酒場を隠れ蓑にジンは生き残り、また密造酒としても多く作られました。

さて、そんな軒数の酒場の酒を国内の密造酒だけで補えるはずはありません。やはり、海外からの密輸ということになるのですが、そこで暗躍したのがイギリスのDCLことディスティラーズ・カンパニー・リミテッド社。現在はディアジオという世界一の酒造企業となっています。当時からゴードンやタンカレーといったブランドを有し、カナダ経由で自社製品を売り捌きました。

一方で余裕のある人々は禁酒法のないヨーロッパに移り住み、その頃までにはヨーロッパに広まっていたアメリカ風のバーでドライ・ジンのカクテルを楽しみました。中でも名高いのがパリのハリーズ・ニューヨークバーとロンドンのサヴォイ・ホテルのアメリカン・バー。ハリーズ・ニューヨークバーはハリー・マッケルホーン、サヴォイ・ホテルのアメリカン・バーはハリー・クラドックという、現在までスタンダードカクテルとして安定した人気を誇るカクテルを考案した伝説的なバーテンダーがいたことで有名です。

こうしてアメリカの飲酒文化は禁酒法時代に衰えるどころか、大西洋を挟んで人や技術は堂々と、お酒は裏口を通って往来する形で発展することとなったのです。

 禁酒法が終わると。ジンは熟成の必要がないことから真っ先に生産が再開されました。そしてそこから再びマティーニの時代がやってきます。

 

戦後のジンとウォッカの台頭

 

 ご存知の方も多いかもしれませんが、マティーニはカクテルの王様として、現代においても名高いカクテルのひとつです。それがどうやって誕生したのか、なぜここまでの人気になったのかについては一定の説はありません。一般にアルコール度数が高く辛口で男性的、フランクリン・ルーズヴェルトやチャーチルといった当時の大政治家に愛された。数多くの逸話に彩られる一方で、起源に諸説はあれど確たるところは不明。そんなミステリアスでいつも議論の対象になる。そんなところが、現代まで伝わる魅力のひとつだと言えそうです。第二次世界大戦の期間も含め20世紀の中盤は、そうしたマティーニの人気がジンの人気をも下支えしていました。ちなみに、現代でこそジンのカクテルというとジントニックを真っ先に思い浮かべる方も多いと思いますが、当時はトニックウォーターの価格が非常に高かったため、マティーニに人気が集中していたそうです。

ところが、1960年代に入るとスミノフをはじめとするウォッカが台頭してきます。無味無臭のウォッカは飲んでも息が臭くならず、小説や映画で有名な007のジェームズボンドがジンではなくウォッカでつくるマティーニを愛飲することもあり、女性やより洗練されたものを欲する若者から大きな支持を得ました。ウォッカはあっという間にジンに代わってアメリカはもとより世界中で最も人気のあるスピリッツとなり、ジンは20世紀の間、古臭いものとして扱われるようになってしまいました。

 

クラフトジンと今後の展望

 

そうして雌伏の時を経た21世紀、ジンが復活を遂げます。最初の萌しは1987年に発売されたボンベイ・サファイア。今となっては酒屋さんはもちろんのこと、コンビニやスーパーでも目にすることの多い超定番銘柄ですが、何が違ったのか。それは、目を引くおしゃれなブルーのボトルと、そこにイラストで表現するくらい大々的に、「使用したボタニカルを公開した」ということです。それまでジン業界はレシピを極秘にするのが通常でしたが、公開することにより、こんな材料を使うとこんな味になるのだとにジンの持つ可能性を示してみせたのです。

それ以降、既存の製法や材料に捉われない、自由なジンの作り方が研究されるようになり、ついに現代のクラフトジンの先駆けとなるジンが誕生します。それがスコットランド産のヘンドリクスです。アメリカでは2000年、イギリスでは2003年に発売されたヘンドリクスは、キュウリとブルガリア産のバラの花びら、ニワトコの花とカモミールという伝統にとらわれない材料を使用し、それまでの常識を塗り替えました。

 

そんな折の2008年のイギリスにおいて、1800リットル未満の蒸留機は蒸留免許を得られないとした1823年の法案が廃止。これにより、小規模の生産が可能となり、多くの実験的なレシピによるジンが造られるようになりました。これがブリュードッグ社などの仕掛けによって一足先に流行し始めたクラフトビールの後を受け、やがてクラフトジンと呼ばれるようになったものです。また同様に小規模生産でオリジナリティのあるクラフトウイスキー蒸留所の建設・生産ラッシュも重なり、ウイスキーが熟成を終えるまでの年数 –スコッチの場合は法律上最低3年、バーボンの場合は法律の縛りはほぼないものの事実上4年以上かかりますが−その間にも目先の利益をあげられる商品としてクラフトジンが開発されたりしました。その動きは同じくこだわり素材のビールの小規模生産を旨とするマイクロブリュワリーの建設ラッシュが起きていたアメリカでも起こり、ビールと並行してバーボンやその枠組みに捉われないウイスキーを作り、またその設備を使用してジンを造るということが行われました。

 

また日本においてもその流行を受け既存の酒造メーカーや焼酎メーカーが既存の設備と独自の原料や製法を用いてクラフトジンを造る動きが始まり、ジャパニーズウイスキーの人気の急上昇とそれに伴う供給不足を補う意味もあってか、現在においてもそれは一旦の落ち着きを見せながらも続いています。

 

 

 

 さて、ここまで2回に渡ってジンの起源と歴史を振り返ってきました。

 

 ジンの現在ですが、熟成の必要のないお酒ということでここ数年はクラフトジンやその蒸留所がイギリス、アメリカをはじめとして世界中に建てられました。私の私見ではありますが、実はウイスキーの蒸留所もそうなんですが、ちょっと増えすぎなのかと思っています。売れるジンもあれば、残念ながらそうでないものも出てくるのでしょう。これからは沢山の蒸留所やブランドの統廃合が進んでいくのではないでしょうか。あまた生み出されたジンのうち、今後どのようなものが時代の風雪に耐え、後世にまで残っていくのか、非常に楽しみですね。

 

参考文献