バーとお酒の入門講座

バー初心者の方を対象に、バーならではのマナーや楽しみ方、お酒に関する基本や雑学、豆知識を書いていきたいと思います。バーに興味はあるけれど、何だか最初の一歩が踏み出せない、そういう方の一助になれば幸いです。

自己紹介Part 8 〜大学編・後編

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自己紹介Part1 生い立ち&幼少期 - バーとお酒の入門講座

自己紹介Part2 〜小学校編・前半〜 - バーとお酒の入門講座

自己紹介Part3〜小学校編・後半 - バーとお酒の入門講座

自己紹介Part4〜中学校編 - バーとお酒の入門講座

自己紹介Part5 〜高校編 - バーとお酒の入門講座

自己紹介Part6〜浪人編 - バーとお酒の入門講座

自己紹介Part7 〜大学編・前編 - バーとお酒の入門講座

 大学生活のどこで前半と後半が分かれるかといえば、学部生の数字で言えば2年生と3年生の間になるのだろうが、私の場合はちょっと前倒して2年生の秋に象徴的な出来事があった。

 生活の生命線たるアルバイトを変えたのである。

 それまで入学以来の2年半、近くのパチンコ店で働いていた。相変わらずパチンコやスロットに興味はなく、ついに自分で打つことはなかったが(現在までもない)、それでも社員からはそれなりに頑張りを評価してもらい、時給を上げてもらえるなどもしていた。しかし、私はパチンコ店で働くのが苦痛になってきていた。もとより生活のためだけに自分の好みなどは一切考えずに決めたアルバイト。そんな中で周りのスタッフも良くしてくれたし仕事には一定のやりがいを感じていたが、どうしても我慢できなくなってきたことが一つだけあった。

 

 客が嫌い。

 

 致命的である。
 嫌なお客さんというのはいつでもどこにでもいる。正直を言えば今だっている(※注:常連さんにはいない)。しかしパチンコ店に来る客はどうしても相容れなかった。特に自分が仕送りをもらっていない学生なものだから、平日にいつも朝から晩までパチンコやスロットに興じる学生を見ると非常に腹立たしく感じた。また、夜遅くまでぐずる幼児をつれて遊んでいる母親などをみても同様だった。その頃話題になった、車の中に放置して死なせてしまうなどの行為よりもマシなのだろうとも思ったが、それでもやるせないものはあった。

 単純に仕事が大変だけでなく、嫌なものを見続けると自分の精神状態に大きな悪影響を及ぼすことを知り、生活が傾くリスクを冒してでもバイトを変えなければならないと感じてきた。

 

 同時に、大学生活も一年半を過ぎてわかってきたのが、夜の授業の方が面白いということだった。(現在は廃止になってしまったが、当時は夜間部があり、私の所属していた昼間部の人間でも夜間部向けの授業を年間最大20単位分まで履修することができた)。夜の授業はやや社会人学生向けのところもあり、その方が実際的で興味深いものが多かった。そして社会人向けでない一般の授業でも18時や19時30分から始まる授業の方が良かったし(※大きな声では言えないが午前の授業特に9時からの一限は教員も学生も皆揃ってモチベーションが低かった気がする・・・笑)、その前後に友人と夕食を食べたりできる時間があった。ところが17時からバイトがある日だと、それが叶わない。バイトを変えたいと思った背景にはそういった大学での事情もあった。

 

 そしてバイトを変えることになる大学二年の11月。
 さて何をしようかと思うことはなく、実はすでに目をつけていたものがあった。二年生になってまもなく大学のすぐ近くのオープンした居酒屋。基本給は落ちるが深夜帯に働けば今までよりも稼げるよう。午後〜夜間の授業を重点的に履修するならこの方が都合がいい。面倒臭い酔っ払い客もいるだろうが、パチンコ店との圧倒的な違いは「自分も酒好きで酔っ払いに関しては人のこと言えない」という点である。酔っ払いならある程度許せるだろうということ。自分でも少しずつお酒を買って、家でカクテル?を作っていたりもした。たまたま大学の同期がオープニングスタッフとして入っていて、かなり厳しい環境だということは聞いていたが、マックでやっていた経験もあるし、何と言っても仕事しなければ生きていけない身。多少厳しかろうが何だろうが、やるしかない。パチンコ店で働くよりはよっぽどマシなはず。

 

 

甘かった。

 

 

 めっちゃ仕事きつかった。最初は。マックでの経験はほぼ役に立たず。聞けば、当時20名程度のアルバイトがいたが、オープン当時は100人くらいを採用、残ったのがその20名。6月のオープン時から11中旬までの半年弱の間に入ってきたアルバイトは皆すぐに辞めてしまったらしい。つまり、生き残った精鋭オープニングスタッフ+新人の私という人員構成。

 私ひとりだけが著しく仕事できないというのは辛い・・・。

オープニングスタッフの結束力の強さは、仙台で働いていたマックがそうだったので身をもって知っている。なので馴染むのには数ヶ月を要した。
この数ヶ月間は大学生活でもっともしんどい期間だったように記憶している。バイトを始めてたかだか1ヶ月程度の年末に長野の小諸に泊まり込みでヘルプにいかなければならなかったり・・・。全然仕事できないのに別業態の右も左もわからないお店で時々怒鳴られながら仕事したり。

 とにもかくにも失敗しまくり。失敗しないと物事覚えられないんだな〜と悟った。辞めて他のことするべきかと思ったこと、数知れず。

 

 

しかし一年後。

気がつくとホールのリーダー的なポジションに収まっていた。主な持ち場はドリンク作る係。質より量の最たるものだが、余裕あるときはマニュアル無視して炭酸やトニックウォーターを混ぜずに層にしてビジュアル重視にしていたりした。そう、それが現在のバーテンダーとしての私の原点。
 生活がかかっているのでテスト期間だろうがなんだろうがシフトを厚く入れられるのと、頼まれたヘルプはほぼ断らない(最終的に4業態33店舗を経験することになった。歌舞伎町の各業態の総本店も制覇。楽しかったなー)。そういう姿勢が買われたというか、仕事の密度が濃いので成長せざるを得なかったというか。
 幹部社員が部下やアルバイトを殴っていても「お、やってんな〜w」くらいには免疫がついた・・・褒められたものではないけれど。
 さらに気がつくとシフト作成とかレジ締めとか、社員の領域にも手を出すようになっていた笑

 

さて大学4年次。
この頃にはもうバイトが楽しい要素が大きくなった反面、3年後期からちょこちょこやっていた就活にも本腰が入ってくる頃。
勉強はというと、3年次終了までに首尾よく単位をとり、あとは必修の卒論10単位でちょうど卒業単位を満たすというところ。つまり4年次は卒論のみに集中すればよい。この卒論というのがやはり最大の難関で、30枚前後、全て英語で書かなければならない。参考文献も肝となるのは英語のものばかり。バイトはそれまで同様しなければならないため他のものに気を取られている余裕はないように思えたし、実際そうだった。
 題材に選んだのはErnest Hemingwayの処女長編小説“The Sun Also Rises”(邦題:「日はまた昇る」)のヒロイン、Brett Ashleyのキャラクターがどのようにして生まれたかを探るというもの。実は思春期以降大学生活の中でも「魔性の女」っぽいのに引っかかりがちだったので、魔性の女研究から始まってそのテーマに落ち着いたというところ。

 

 就活はというと、他の人からするとあまり真面目にはやっていなかったように見えたと思う。ゲーム業界志望だったが、第一志望も含め、そもそも新卒採用をしているところが非常に少なかった。なのでアルバイトから潜り込むしか方法がないように思えた。他の業界も一応受けたが、面接で違和感を感じて蹴ったり、普通に不採用だったりした。ちなみにレコード会社や出版社。今から思うと、ゲーム業界に含め、私は行かなくて(行けなくて)よかったのかもしれない。
 とはいえ卒業後いつまでも居酒屋にいるわけにもいかないので進路は決めなければいけない。なので当時の趣味であったバイクの雑誌を編集している出版社に採用されたので、卒業まではアルバイトということになった。

 

 2日で辞めた。

 

 面接をし、採ってくれたのは営業部長だったが、社長が絶望的だった。
仕事を始めて2日目。正直仕事は面白くなく、かといって面白い仕事をいきなりやらせてもらえるはずはないので、とりあえず渡された仕事をしながら様子見で他の社員さんがどういう話をしているか聞き耳を立てておこう、そういうスタンスでいた。
 そんな中、社長ともう一人の上司(役職失念)に誘われて昼食に行くことになった。そこで私が卒論執筆中の大学4年であること、卒業したら正社員採用予定であることなどを話したが、その時に突然大学教員の悪口を言い始めたのである。曰く、奴らは世間知らずで、何も生み出さず、ロクなもんじゃない、卒論なんてやめてとっとと働いた方がいい、と。
 当時の僕は卒論の指導教官をはじめ、各先生方には大変お世話になっていたし、卒論にも真剣に取り組んでいたので、かなり勘に触るものがあった。 確かに今なら言い分はわからないでもない。部下を抱え、日々売り上げを上げんと戦っている経営者ならそう思うのも致し方ないのかもしれない。バーテンダーをしていて、学生のお客様には大学の教員やアルバイト先の社員以外の大人とも接して欲しいと思うのは、この社長の意見と通底しているのは確かだ。だからそれだけならこの社長は大学嫌いなんだな、で済む話だった。

 しかし。

 今でもさっぱりわからないのが、次に同じ口から出た自慢話。曰く、自分の力で甥っ子を東大に入れてあげたという内容。勉強を教えたのか金を出したのかはわからないが、実際に合格したのは甥っ子であろうに、俺がいなければ無理だったと言わんばかりの物言いであった。大学の教員をさんざんこき下ろした直後に、甥っ子をその教員のもとにやった話を自慢するとは。そこは「ウチの甥っ子も東大入ったけど、別に大学なんかいかなくても・・・」って続くんじゃないのか。
 卒論効果で論理の矛盾には敏感になっているところに、矛盾した話をこれだけ偉そうに堂々とする人の下にいるのはきっと無理だ。

 心の中で黄色を経ずに赤信号が点灯。直属の上司と合わないとかなら挽回や努力のしようがあろうが、相手がワンマンオーナー社長ではどうしようもない。

 

 かくして内定先をあっさり蹴り、また居酒屋に戻った私。進路は不明だったが、この辺りからある思いが頭をもたげてきた。

 

「海外で暮らしたい」

 

 なぜ突拍子もなくこんなことを考えるようになったかというと、要因はいくつかあり。
 ⚪︎就活で書いたエントリーシートのうち数社は「海外生活経験」の欄があった。当時は観光すら未経験。
  ⚪︎英文学専攻というと、なぜか英語を喋ることができると思われがち
 ⚪︎卒論で扱っているHemingwayが同じ年くらいの時にパリに移住し、その刺激的な環境のもと、創作活動を始めている。
 ⚪︎就活を通して、自分はバイトばかりでつまらない人間になってしまったのではないかと疑問に思うようになってきた

 

決定的だったのは、必死で書いた卒論の講評だった。
「指導教官も知らないような枝葉の部分にまで研究がなされていて面白いが、それが目立ってしまい肝心のテーマの部分の掘り下げが弱いのではないか」
というものだった。評価は並。評価の高低はともかく、ただの卒業要件として書き始めたはずの卒論が、いつのまにか自分の人間性を表現するものになってしまっていたことが驚きで、かつこの講評はすんなりと受け入れることができるものだった。そうか、自分には芯がない。幹がない。

Hemingwayの影響もあり、見知らぬ海外で自分を鍛えなければならないのではないか。

卒業前には、もうその意思は固まっていた。

先立つものがないので、覚悟を決めてアルバイト先の殿堂入りブラック企業のブラック社員となり、一年でお金をため、英語圏、海の近く、気候が良いところという条件を満たすオーストラリアはゴールドコーストへ。

2006年3月26日。初めての海外が長期滞在。

 

次回からはオーストラリア編。
ここからは懐かしのmixiに記録があるので、その転載がメインとなります。